野迫川村(のせがわむら)はちなみに離島をのぞいて全国で最も人口少ない村で300人くらい、へー。






平維盛塚由来記
一の谷の合戦に敗れた平家は、屋島へと逃げのび、寿永三年(一一八四年)宗盛公の下命により、平 維盛公(二十六才)は熊野水軍の援軍を求めるため、熊野別当湛増(現在の和歌山県田辺市)のもとへ使者として派遣されたが、天下の情勢はすでに源氏側にあったため、湛増は平家の恩恵は知りつつも、熊野一回の安春を考慮し、援軍を断った。
湛増は維盛公に姫を娶らせて、自分のもとに匿い、源氏の追討から守った。
しかし 源 頼朝は文治五年(一一八九年)維盛逮捕令を発令し、「大平家狩り」をおこなった。
湛増は配下豪族に命令し、維盛を守護させながら、奥熊野の山岳地帯に逃した。
建久九年(一一九九年)源頼朝の死により、平家狩りも休止した。
維盛は京の妻子に再合するため、紀伊山岳路を北上、建保四年(一二一六年)維盛(五十八才)主従は、野迫川村平へ到着。
山岳流浪潜伏すること三十余年におよび、源氏追討と山岳突破の疲労により、この地にとどまり承久元年(一二一九年)六十一才にて終馬。
里人により手厚く葬られ「平 維盛塚」として伝わる。
「嗚呼 小松三位左中将 平朝臣維盛公、終馬の地」







補陀洛渡海はそっちのけで、平維盛は野迫川で最期を遂げた場所とされています。歴史の里にある資料館では、悲劇の美男子と伝わる平維盛伝説をジオラマ、レプリカ、映像などで再現しており、敷地内には維盛塚を中心として日本庭園「花鳥風月の庭」、ツツジ園、散策の路を併設しています。また、毎年7月の最終土曜日に「平維盛の大祭」が行われます。リール動画めちゃきれい。
というわけで補陀洛渡海しなかった前提で、野迫川村の維盛の里来ましたがこれは正しいような気がなんとなくします。
とりあえずこんなところにこじんまりとした里で生活して、源氏の追いはぎから逃げてたのは正しい気がしますし、田辺の別当湛増が匿ったとかも時代にあうし、補陀洛渡海はどうなったのだなのですけどまあ歴史はそんなもの。
住所が野迫川村平、ってそのまんま。