花山法王(968~1008)が始めたと言われる西国三十三所巡礼、花山法王は17歳で天皇になりその後2年19歳で出家して法皇、この那智の地で1000日修業を行ったそうです。そして、観音霊場を巡拝され、西国三十三所観音巡礼を再興されました。時代は藤原氏の摂関政治の時代、968年には天皇になられ、970年には法皇になっています。
摂関政治の犠牲になって天皇の地位を追われた、というのが正しい説明になるので悲しみに暮れた花山法皇は、熊野に来てこのような歌を詠みました。
岩田河渡る心の深ければ神もあはれと思はざらめや
石走る滝にまがいて那智の山高嶺を見れば花の白雲
どの歌も悲しみに打ちひしがれています。
ちなみに近露にある牛馬童子は花山法皇だと言われていますし、かやの赤いところをみて「血か露か」言ったという、近露語源も花山法皇だと言われています。
ちょっとしゃべった会話が地名になるなんて、法皇ほどえらくなると、ほんとにいらんこと言えません。酒飲んで機嫌よくなって何もかもおめでたくなったら、この一帯はめでてえから「寿限無」、あそこは「海砂利水魚」、そっちは「ぶらこうじ」、「シューリンガン」、「長久命」とか適当に言って、ほんとに地名になりそうです。
ちなみに、第一番那智山青岸渡寺も花山法皇がこの地で、修行を経て回復したから第一になっています、と所以も多いのがこの那智山青岸渡寺です。
こちらは27番の書写山圓教寺